翻訳と辞書
Words near each other
・ 恭帝侗
・ 恭平
・ 恭恵王后
・ 恭愍王
・ 恭敬
・ 恭水県
・ 恭淑皇后
・ 恭淑韓皇后
・ 恭献賢妃
・ 恭王 (周)
恭王 (楚)
・ 恭生薬品
・ 恭皇帝
・ 恭礼門院
・ 恭福帝姫
・ 恭粛皇貴妃
・ 恭粛貴妃
・ 恭翁運良
・ 恭聖仁烈楊皇后
・ 恭聖仁烈皇后


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

恭王 (楚) : ウィキペディア日本語版
共王 (楚)[きょうおう]
共王恭王(きょうおう、紀元前600年 - 紀元前560年、在位:紀元前591年 - 紀元前560年)は中国春秋時代の第24代君主、第7代の王。、または成王の曾孫、穆王の孫、荘王の子。
==略歴==
紀元前591年、父・荘王の死去に伴い即位。荘王の治世時に楚は大きく勢威を拡大しており、天下の覇権を握っていた。だが、荘王在世中に楚の力を借りてを討とうとしていたは予定を変えてに兵を借り、斉を討った。
紀元前589年、共王は子重(公子嬰斉, zh)に兵を預けて、を攻めさせ、さらに魯軍を討たせた。魯は財物と公子を差し出して和睦を願い出、共王はこれを受けたが、公子は帰らせた。
同年、巫臣夏姫(zh)を連れて晋へと出奔した。子反(公子側, zh)はこれに怒って晋へ贈り物して、巫臣の仕官を妨害しようとしたが、共王は「贈り物をしても巫臣が有能であれば、晋に登用されるであろうし、無能であれば放り出されるだろう。」と止めた。
紀元前588年、楚の捕虜になっていた晋の大夫智罃(智武子)を捕虜交換で晋へと返すことになった。この時に共王は智罃に対して幾度かの質問をしたが、智罃の返答の見事さに感服し、晋とは未だ争えないと言った。
この頃、楚の盟下にあるが同じく楚の盟下にあるにしきりに攻められると訴え出てきた。鄭も楚に対して訴えでたが、共王は許が正しいとした。このことで怒った鄭は晋の盟下へと離反した。
紀元前576年、鄭はなおも許を攻めるので、共王は鄭を攻めて、これを降した。晋は鄭の変節を責めるために衛・斉・魯を引き連れて鄭を攻め、両軍は鄢陵(現河南省鄢陵、鄢は焉におおざと)で激突する(鄢陵の戦い)。
この戦いで共王は晋の呂錡(魏錡、厨武子)に眼を射られて負傷した。夜になって共王は将軍の子反を呼び寄せて作戦を考えようとしていたが、子反は陣中で酔っ払っており、このことで戦意を無くした共王は子反を処刑し〔『史記』楚世家の記述より。晋世家や『春秋左氏伝』の記述では、子反は郢に帰還後に、子重に失態を責められて自殺に追いやられている。〕、首都のへと帰った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「共王 (楚)」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 King Gong of Chu 」があります。



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.